越後長岡 よもぎひら温泉 和泉屋

よもぎひらの日々の出来事 和泉屋のブログ

2012年04月29日(日)

知る人ぞ知るお店

おはようございます。暖かくなったのでバッサリと髪を短くしたイカピーでございます。

昨日は久方ぶりの週末休みをいただきました。
そこでこれまた久方ぶりに、友人と共に夜の歓楽街に繰り出すことに致しました。

飲み屋さんや風俗店の並ぶ長岡の歓楽街「殿町」
GW入りの金曜夜とあってなかなかの賑わいを見せておりました。

え?イカピーはなにをしに行ったのか・・・ですか?
いやだなぁ、そんなの・・・・・ラーメン食べに行ったにきまってるじゃないですか( `・ω・´)

キレイな女性のいるお店?
和泉屋で普段きれいな女性に囲まれてますから( ̄ー+ ̄)

とまぁ冗談はさておき五十嵐の目的のお店は「中華 大吉」
TVやなんかでご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
全国放送の番組にも出たことがあるそうです。
「ナニコレ珍百景」とか(笑)
いろいろ変わったお店なんですよ。

まず、365日24時間ほぼシャッターは閉まりっぱなしです。
お客さんは自分でシャッターを開けて入るんですね。
大吉1.JPG花粉症の友人といざお店へ
ということで、まず前もってこのお店のことを知らないと営業しているとすら思わないわけです。

カウンターのみ10席ほどの小さなお店なんですが、週末には常連さんでいつも満席になります。
この日は私と友人分ちょうど2席空いていたのですんなり座れました。

約1年ぶりに訪れた私にもマスターは気さくに
「おぅ久しぶり。今日はなんにする?」
と声をかけてくれます。
私と友人はそろって「ラーメンと餃子で」と注文しました。
まずでてきた餃子が
大吉2.JPG
これで2人前です。

そして餃子をいただいているとラーメン登場
大吉3.JPGどんぶりじゃなくてボールΣ(゚ω゚lll)
タバコとかマッチとか比較対象並べてみればよかったですかね。
一般的なサイズのレンゲが入ってるあたりでお察しください。

念のため確認しますが、私のオーダーはただ「ラーメンと餃子」と言っただけです。特盛でとか量に関することは一言も言っていません。

このお店の特徴のひとつが「マスターがお客さんを見て量を決める」ということ。
私は最上級の評価?をいただいておりただラーメンと言えばこの量がでてきます。
マスターの言葉を借りれば「うちは食わせ放題の店だから」とのこと。新ジャンルですね。

大吉4.JPG完食!
いつも五十嵐はスープまで飲み干さないと完食とは言わないんですが、さすがにこの量いただいた後にスープまでは無理でした。

面白い店なのはお分かり頂けたかと思いますが、味ももちろんオススメですよ。
特にここの餃子は五十嵐大の好物で、満腹になりながらもお土産用の餃子をさらに箱詰めしていただきました。

「ごちそうさま。マスターお勘定は?」
「ん~。二人合わせて2000円でいいや」
二人それぞれ特盛ラーメンと餃子をいただき、私に至ってはテイクアウト餃子までいただいたのに一人当たり¥1000。
というかメニュー表にラーメン¥650 餃子¥450って書いてあるのにそれより安いとか(笑)
学生の頃からほんとにお世話になってきました。

あ、満足してて、マスターとバイトしてる友達の写真撮らせてもらうの忘れてしまいました。
これはまた近いうちにうかがうことにしましょう( ̄ω ̄)

2012年04月26日(木)

けっこん式

おはようございます。イカピーでございます。

陽気もすっかりと春めいてまいりました。
暖かくなると、和泉屋でもお祝いごとのご予約を多々いただきます。
そのお祝いごとの中でも特におめでたいのはやはり「結婚」ではないでしょうか?
今回は結婚にかんするちょっとした薀蓄をお話ししようと思います。

まず結婚式と聞くと、どんなスタイルを連想しますか?
教会でウェディングドレスを着て、神父さんの前で誓いを交わす「西洋式」
白無垢に身を包み、神棚の前で神主さんから祝詞をいただく「神前式」
お寺のお坊さんからお言葉をいただく「仏前式」なんていうのもあります。

上記はどれも本来、宗教的に自分の信じるものの前で誓いを交わし祝福を受けるというのが本来の主旨だったわけですが、現在では宗教上の理由というよりも「ウェディングドレスが着たい」とか「和風のスタイルでやりたい」など、見た目やイメージで選択されることが多いそうです。日本は自由で良い国ですよね。

その日本の昔の結婚式はどんな風に行われていたのでしょうか?
五十嵐の好きな戦国時代の結婚式のスタイルをご紹介します。

まず基本となる様式は「仏前」でも「神前」でもない「人前式」とよばれる形式。
神様や仏様に祝福をいただくのではなくあくまで人と人のつながり、さらに言えば新郎新婦の家族同士、家と家のつながりを第一義にした結婚様式でした。

結婚の「婚」という文字、女ヘンに昏(たそがれ)と書きます。
「たそがれ」とは「誰そ彼」とも書き、薄暗くなってきて人影は見えるんだけどはっきり誰かは見えなくなる時間帯、つまり夕方頃のことをいいます。
戦国時代の結婚式はこの「婚」の字が指すように、たそがれ時にスタートします。

結婚式会場は基本的に新郎の家で、新郎側の親戚一同でパーティのセッティングをしておきます。
新婦側の一族は、嫁入り道具などを手分けして持ち、夕方に家を出発して式場である新郎の家に向かいます。
夕方に家を出た花嫁一行が、新郎の家につく頃にはもう夜です。
儀式的なものも多少はあるのですが、このあとの式は基本的に宴会です(笑)
というのも先に言ったように、当時の結婚式というのは当人たちが夫婦になるというのと同じくらい、家と家同士が親戚になるということを重要視していたため、新しい親戚どうしの親睦会というのにかなりの重点が置かれていたんですね。

加えてちょっとリアルというか下世話な話。
当時の結婚というのは家の事情によるものが大半で、恋愛結婚はかなりレアでした。
当人同士が望まない結婚も多かったわけですが、そういう場合はとくに結婚式で当人たち、とりわけ花嫁に酒を飲ませ、酔った勢いで初夜の性交渉まで済ませちゃうところまで結婚式のプログラムだったんだとか。
なんかやるせないですねぇ。

好きな相手と結婚できる現代は幸せですね。

2012年04月22日(日)

五十嵐の中越震災の記憶 ④

おはようございます。
花粉症と風邪にダブルでやられているイカピーでございます。
みなさまも温かくなったからとご油断召されませぬよう・・・・。

中越震災のお話をさせていただいておりました。
7年以上も前のこととあって、鮮明に思い出せることとほとんど思い出せないことがそれぞれにあります。
そのなかで、自他ともに認める食いしん坊の五十嵐は食べ物の記憶ははっきりと残っています。

震災が起きた当日は夕食の直前で余震の恐れで火を使う事を避けたため、売店のお菓子などをお客さま達と分け合い過ごしました。

少し落ち着きをとりもどした3日目は和泉屋の冷蔵庫にあった食材を、阪神大震災経験者の板前さんが調理してふるまってくれました。
さらにその2日目の夕方には町のコミュニティセンターに「ヤマザキ製パン」さんからの食糧支援がとどき、その対応の早さに驚くとともに感謝したのを覚えています。

3日目の朝、山崎パンさんの新たな支援に加え、セブンイレブンさん・ローソンさんからもパンやオニギリの支援をいただきました。
避難命令を受け避難所である高校の体育館で家族友人と再会した夜、友達と一緒に、早くも営業再開していた「ラーメン清水」さんの塩ラーメンを食べに行きました。パンやオニギリが続く中で久しぶりに食べたラーメンの温かさは昨日のことのようにハッキリと思い出せます。

その後、五十嵐は10日ほどの避難所生活を送るのですが、オニギリやパンなどの支援物資に加え、自衛隊の方々がみそ汁やカレーなどの温かい物を作ってくださいました。ある日ふと夜中の4時くらいにトイレに目が覚めた時、すでに自衛隊の方々が朝食の準備をしているのを見て感動に胸を衝かれたことも鮮明な記憶です。

先の阪神大震災の被害者の方々や東日本大震災の方から比べれば、恵まれた食事情であったと思います。
返す返すも迅速かつ大量の支援を下さったヤマザキ製パンさん、セブンイレブンさん、ローソンさん、さらに昼夜を通して我々の食事やお風呂の世話をして下さった自衛隊の皆様方に深い感謝を申し上げたいと思います。

この「中越震災の記憶」シリーズ、書き始めた当初はもっと筆が進むものと思っておりましたが、苦い記憶をたどり文章に記すというのは存外に難しい作業でありました。
本当はこの後に、家族と共に引っ越した柏崎の話や、和泉屋を離れて職を転々としながらまたここに戻ってくるまでの話などを書こうかとおもっていたのですが、それはまたの機会とさせていただきます。

長々とお付き合いくださった方、ありがとうございました。

2012年04月10日(火)

五十嵐の中越震災の記憶 ③

ずいぶんと間隔があいてしまいました。
ご無沙汰の五十嵐でございます。

中越震災のお話ですが、苦い記憶をたどるのはなかなかに筆が進みませんね。
それでは前回の続きよりおつきあいくださいませ。

さらに一夜が明け10月26日・月曜日
この日には山古志・蓬平に「避難命令」が下されました。
水道電気などのライフラインの停止やもともと細い蓬平の道が余震で崩落する可能性なども考えれば止む無しの処置ですが、長くそこで生活してきた人にとっては簡単に割り切れません。
特に闘牛や錦鯉を生業としてきた人にとっては家族を見捨ることを命じられたに等しい事。父が酪農家である私も気持ちがよくわかりました。

避難命令の避難先の指定は住所ごとに分かれていました。
私は蓬平や長岡市在住の仲間と別れ、山古志住民の避難先である「長岡大手高校」の体育館に避難しました。
そこで家族と再会し、また私を心配して駆けつけてくれた友人とも無事を喜び合いました。

2012年03月27日(火)

五十嵐の中越震災の記憶 ②

ご無沙汰をいたしておりました。イカピーでございます。
だいぶんに間隔があいてしまいましたが、中越震災の話の続きをさせていただきます。

一夜明けて10月25日・日曜日。
私達男性スタッフでお客様の車を保護し、女性陣がお客様方の帰宅方法や交通経路などを確認しました。
それらの仕事を終え一息つくと、それまで無我夢中で見えなかった「現実」が急に目に入ってきました。
地形すら変わった山々、ひび割れた道路、崩れかけた建物、それは訓練でも悪夢でもなく「現実」でした。
現実を認識し目の当たりにすると急に涙が溢れてきました。
「今、私にできることはなんだろう?」自問してみます。
方々が崩れた和泉屋の建物に入り、使えるものを回収し状況の把握をしました。
そして次に自分の問いに出した答えは「今のこの状況を少しでも広い範囲で見て覚えておこう」ということでした。
蓬平を下り始めたところで、智子女将と会いました。
女将も同じことを考えていたとのことで、二人で蓬平を歩き山古志村の入口付近まで状況を見て回りました。
傾いた建物、削られた山肌、いけすが崩れて道路に打ち上げられた錦鯉、など智子女将と一緒に見て回った震災翌日の光景は7年以上を経た今でも鮮明に思い出せます。

行楽シーズンの週末ということもあって、和泉屋の冷蔵庫には大量の食材が入っていました。
そして頼もしいことに、当時の板前さんの中に関西出身で阪神大震災を経験した人がいました。名前は「春木」さん。
和泉屋に入って日の浅い人だったにも関わらず、自分の経験で少しでも人助けをしたい。と率先して調理の指揮をとってくれました。
今はどちらにいらっしゃるでしょうか。きっとあの人も東北の惨状を見て人一倍に胸を痛めている1人だと思います。

地震の起きた当日から何度も家族と連絡をとろうと試みていましたが、25日の夕方になってようやく実家山古志の弟と電話がつながりました。
そして弟の口から聞いた山古志村池谷地区の状況を聞き唖然としました。
木造古民家の生家はかろうじて原形を留めている状況、父が営む酪農の牛舎も同様。そして今は屋根もない村のバス停駐車場に地域中の人が集まって毛布や布団に包まって救助を待っている状況だ。そう弟に伝えられました。
またも頭が状況把握に追いついていなかった私はただただ家族全員が無事であったことを喜び、励ましの言葉をかけることしかできませんでした。
(つづく)

2012年03月11日(日)

五十嵐の中越震災の記憶

おはようございます。イカピーでございます。
これを記しているのはもう日付が変わろうかという時刻ではありますが、本日は3月11日。東日本大震災から1年という日であります。

震災を経験した者として、今も避難所生活を送ってらっしゃる方々の様子などを報道で目にすると胸が痛みます。
あの被害状態を目にし、今も苦しい生活を強いられている方々を思うと、私たちが経験した中越震災を苦労話にして語ることが憚られるところです。
しかし、現在でもお客様より中越震災当時のことを聞かせて欲しいというお声が多く、女将に「いかにして和泉屋を復興させたかの講演」をしてほしいというオファーも多々来ております。
当ブログ部のヤスオ部長から「僕たちスタッフの目線から中越震災の経験のことを書いてみるのもいいんじゃない?」と言われ、キーボードを叩いているところであります。

2004年10月23日土曜日冷え込みの厳しい秋の日でした。
和泉屋は行楽シーズンのしかも週末ということで、大型バスでの団体様を迎え、お客様の総勢は150人を超える満員御礼の日でした。
現在は夜勤専門の五十嵐ですが、当時は午後から夜までのシフトで勤めていました。
我々にとっては忘れ難い「PM5:56」
私は売店コーナーでお客様の応対をしていました。
最初に感じた横揺れ、これは「けっこう大きいな」という程度でそれほど驚きませんでした。
それから数十秒後でしょうか、今まで経験したことのない縦の揺れに襲われました。
売店にの棚に並んだマグカップやお酒などがいっせいに飛び出し床に残骸を散らします。
ちょうどその時いらっしゃったお客様がブティックハンガーに並んだ服を見ているところでしたが、そのハンガーラックも倒れこみました。
そのお客様ご自身もバランスを崩し床に倒れましたが、上から倒れかかってきたのが服だったのがまだ幸いだったと思います。
それがお酒や陶器の並んでいるコーナーだったらと思うと今でも恐ろしくなります。

そのお客様を玄関方向に誘導した後の私の記憶は飛び飛びになっています。
フロントの先輩方と「6F客室全部避難OK!」「お風呂場も避難完了!」「エレベーター使ってる人もいない!」などと手分けをしながら館内を走り回ったのはおぼろげに覚えています。
「あの状況であれだけ冷静で迅速な対応ができたアンタ達を私は誇りに思う」と今でも智子女将は褒めてくれます。
ただ、ほかの先輩方は知らず、私に関して言えばその段階では「現実を受け止められていなかった」と自己分析します。
ただ夢中に走り回りながら気持ちでは「これは訓練の一種」とか「悪い夢でも見ている」といった感覚でした。

震災の起きた「5:56」という時刻。
ちょうど団体の方を中心に大半の方が夕食の席についている時間でした。
一所に集まっていたために避難が円滑だったこと。夕食が始まると釜飯や鍋物に火を入れるのですがその直前だったため火災を避けられたこと。などは不幸中の幸いな要因だったと思います。
反面、冷え込みの厳しい日に皆様お風呂上りの浴衣1枚。さらに夕食前の地震による空腹。とその後を過ごすには厳しい状況でした。
女性スタッフで社員のまかない用に炊いてあったご飯をオニギリにし、売店のお土産用のお饅頭や漬物などをお客様に配りました。
私たち男性陣は揺れが少し落ち着いたのを確認すると、チームを組んで布団倉庫や浴衣倉庫に入り少しでも暖を取れるものを集めて来ました。
そして団体さんを載せてきた大型バスや和泉屋のバスの中になんとかお客様を収容したのを覚えています。
その段階で出来ることがなくなると、とりあえず解散となりました。
その時に至ってもまだ現実を受け入れられていない五十嵐は「建物には入るな」という周囲の忠告も忘れ、いつもどおりに社員寮に戻りベッドに潜り込みました。
夜が明ければ日常が戻ってくると信じるようにして・・・・
(つづく)

2012年03月09日(金)

●●風食品 ②

おはようございます。毎朝の楽しみは日経新聞の連載小説「等伯」
戦国時代の画家を主役にした歴史小説で、絵画の世界も奥が深いなぁと感じさせられます。小学校から図工や美術の成績が2だったイカピーには遠い世界のお話でございますけれども(´・ω・`)

さらにさかのぼって思い返すは小学生の頃食べた、みんな大好き駄菓子。
「人生で大切なものは全て駄菓子屋で売っていた」とよゐこの有野さんもおっしゃっています。
有野課長.jpg
その代表格である「よっちゃんイカ(正式名称・カットよっちゃん)」みなさんもお好きですよね(断定)
よっちゃんイカ.jpg
じつはアレってイカだけじゃなく、鱈のすり身をイカに似せてるものと混ぜてあるってご存知でしたか?
それを知った小学生イカピーは衝撃でしたね。
これほど長くにわたって愛される製品を原材料の値上げなどにも負けず一定価格で提供し続ける「よっちゃん食品工業」
ならびに同会長であられる金井芳雄さん(ニックネームよっちゃん)には頭の下がる思いです。

コピー食品のもとの主旨は「高価でなかなか口に出来ない物を安価なもので似せて作る」ことにありました。
しかし食生活も豊かになり、ただ高級な物のマネをするだけではない多様な目的でつくられるコピー食品がでてきました。
お祝い菓子で定番の砂糖でつくられた和菓子の鯛、洋菓子でもマジパンでいろんな形の物を表現しています。
お坊さんの精進料理など肉が食べられない人のために大豆を磨り潰したものを肉や魚に見立てた「もどき料理」などは肉と間違うほどだそうで、一度食べてみたいですね。
その他、マーガリンも元々はバターのコピー。フルーツ風味の清涼飲料で無果汁のものもフルーツジュースのコピーと言えます。
あとはビールのコピーである「発泡酒」お世話になってる方も多いのではないでしょうか?

物によっては商品名の詐称だ!とお怒りになる方もいらっしゃるようですが、イカピーは基本的にこういう「上手なだまし」の類は大好きです。
単に価格を安くするためのものやマネするだけのものに留まらず、様々な創意工夫によって生み出された「コピー食品」
みなさんが見つけた意外なコピー食品、よかったら教えてください。

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2012年03月08日(木)

●●風食品

おはようございます。
友達に借りた漫画「へうげもの」にハマり茶道に興味のでてきたイカピーでございます。まぁ緑茶があまり好きでないうえ、正座を5分もしていられない段階でアウトなわけですが。そもそも茶室に入れない可能性すら・・・・。
へうげもの.jpg

閑話休題。
本日の本題に参ります。
もう10年以上前のことにまりましょうか、私がある飲食店でアルバイトをしていた時の話を致します。
夕食時で忙しく、料理の盛り付けをバイトの私も手伝うことになりました。
その時のメニューを正確に覚えていないのですが、白身魚の洋皿だったと思います。
その洋皿の仕上げにちょっぴりキャビアをのせるのを私は任されました。
キャビアといえば世界三大珍味!チョウザメの卵というやつでございますよ。
超庶民イカピーはその響きだけでテンション↑↑
それを少量とはいえ仕上げに添えるとは豪華!とそのキャビアの瓶詰を手に取りました。
そういう時に産地表示や原材料表記を見るのがイカピーの癖であります。
そこでイカピーが目にしたものは・・・・

食品名:キャビア風食品
原材料:海藻エキス・植物性油・・・etc
あれ?チョウザメどころか魚卵の表記がない、それどころか動物性の食品ですらない!
後で調べたところ、海藻から抽出したエキスを風味付けしてゲル状のカプセルにしたものだそうです。
そこまで高級な物でないと知り、ちょっと食べさせてもらいました。
あ、いける。
庶民イカピーは本物のキャビアなんて、一度頂き物の瓶詰を食べたことがあるくらい。
その時のは正直、塩味がキツすぎるのと独特の香りが受け入れがたくあまりおいしい印象がありませんでした。
この「キャビア風食品」はベースの味や風味をそれらしくしながら、全くキツさがなく食べやすい。
表示などを見ずに「これがキャビアだ」といわれて出されれば庶民イカピーは確実に信じましたね。

それと同じつくり方で耳にしたのが「イクラ風食品」
キャビアと同様、生臭さなどがなく風味を真似しつつもアッサリした食べ物になってます。
こちらは以前より輸入イクラの値段が安くなったため、わざわざ真似をしなくてもよくなり、ほとんどみられることが無くなったそうです。
見分け方・・・・ということでもないんですが、本来の魚卵は動物性タンパクなので熱湯などにつければ鶏卵のように白く固まります。
しかし植物エキスを使った「風味食品」は熱を加えても色がそのままなのです。
新潟の郷土料理「のっぺ」などに「ととまめ」と呼んでイクラなどの魚卵をいれますが、そのときにまったく変色しなければコピー食品となるわけです。
コピーいくら.jpg

続きは次回に。またご覧くださいませ。

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2012年03月06日(火)

いからし! ④

おはようございます。
本日おいでいただいたお客様に「イカピーのブログいつも見てるよ」と言われ上機嫌のイカピーでございます。

「どんだけ自分の苗字ネタひっぱるんだ」と部長からもツッコミの入ったこのお題も今回が最終回です。

西暦0年の頃から新潟県は三条地域を中心に権勢を誇ってきた五十嵐一族でした。
しかし戦国時代に上杉謙信の父親にあたる長尾為景(ながおためかげ)という武将が登場し新潟の各地を征服していきます。
五十嵐一族も長尾さんに抵抗しますが敗北し、長尾家さらに上杉謙信の配下となりました。
それでも上杉謙信の時代にはまだ配下とはいえある程度の地位はあったそうですが、謙信公が亡くなってからがさらに問題。
上杉謙信の跡継ぎを巡って上杉景勝と上杉景虎が「御館の乱」という戦争をおこします。

当時の越後の有力一族に長尾為景や上杉謙信の出自でもある長尾一族がいました。
しかしその一族は地域ごとに遠縁の一族同士で仲が悪く
現在の下越地域を中心にした「三条長尾」
現在の長岡市近辺で権勢を誇った「古志長尾」
上杉景勝の出身でもある魚沼を支配していた「上田長尾」
という三つの長尾一族がそれぞれ諍いをしていました。
我らが五十嵐一族は「古志長尾」の配下だったそうです。
その古志長尾一族が「御館の乱」で上杉景虎サイド、負けた側についたため一族は没落しました。
それ以来は五十嵐一族も大半が帰農し、一般人として近代まで至っているそうです。

以上、五十嵐の歴史というかまぁフィクション色の強い昔話だったわけですが、調べてもわからない一族の謎が1つあるのです。
それは読み方。
私のような新潟県在住の五十嵐さんの大半は「イカラシ」と読みます。
ところが県外の方はほぼ「イガラシ」と発音します。
私が和泉屋に勤めたばかりの頃ご予約を電話をいただいた際
「ありがとうございます。このご予約は私イカラシが承りました」
「え?お名前もう一回言ってくれる?」
「五・十・嵐と書いてイカラシでございます」
「あぁイガラシさんね。じゃぁ予約よろしく」
こんなやり取りが数回あり「新潟県意外の方にはイガラシという発音が一般的なのだ」と悟りました。
以降は予約電話の時に限り「ご予約はイガラシが承りました」と名乗る事にしています。

五十嵐姓が新潟発祥で他県に拡がっていったとして、その過程で読み方が変わっていった謎。
これが分る方いたら是非に教えていただきたい!

実は私も行ったことがないのですが三条市飯田に前回の話の石がめり込んだ杉の五十嵐神社という神社があり五十嵐の歴史の中心になっているそうです。私の祖父がそこを訪ねたときにはお土産に「五十嵐音頭」という曲の入ったカセットテープをくださったとか。ついに私は聞くことがありませんでしたが(^ω^;)
五十嵐神社.jpg
さらには一族の最盛期にその地域を支配していたと思われる館。その名もストレートに五十嵐館!その跡地も残っているそうです。
現在はその輪郭のみうかがえて、土地はゲートボール場として地域のおじいちゃんたちに愛用されているとのこと。素晴らしい。
五十嵐館.jpg
日本全国の五十嵐さんも機会があったらぜひ訪れてみてください。
あ、その際のお泊りはぜひ和泉屋に!これ言っとかないとw

ということで長くなりましたが、私の苗字のお話はここまで。
お付き合いいただきありがとうございましたm(_ _)m

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2012年03月04日(日)

いからし! ③

おはようございます。もしかして:花粉症予備軍?なイカピーです。
ちょっと鼻がムズムズしてきました(´・ω・`)

札幌のトラさんコメントありがとうございます。
北海道ではアイヌ語が今も息づいているんですねぇ。

五十嵐の苗字の話の続きです。
紀元の頃から、現在の新潟県三条市近辺を治めてきた五十嵐一族でしたが、
「いいくにつくろう」鎌倉幕府の時代には源頼朝から直接、この地域の領主として任命されたといいます。

そのころの昔話をひとつ。

領主の五十嵐の家に美しい娘がおりました。
両親ともその娘をとても大切に育てていました。
娘が年頃に育ったある時から、その娘の所に毎晩謎のイケメンが通うようになったといいます。
そのことを知った両親は「大切な娘を!」と激怒するかと思いきや、夜な夜な通ってくる男がいい男なので容認ムード。
ただ知らないふりもできないと、母親が娘にその男の素性を尋ねると「名前も住所も教えてくれないの」と娘は答えました。
いくらいい男でも正体不明の男とつき合わせるわけにはいかないと母は作戦を考えます。
次の夜に現れた時に、男の服の端っこに針をつけて長い糸を縫い付け、その糸を追跡しようという作戦でした。
さっそく娘は作戦を決行。
男が帰った翌朝にその糸をたどって追跡すると、「院内の淵」と呼ばれる沼のところで糸が途切れました。
なぜ沼で糸がなくなったんだろう?と娘が考えていると、その沼から龍神が現れました。
「見つかってしまったら仕方ない。これまでお前に会いに行っていたのは私だ」
自分のところに通ってきたいい男の正体が龍神だったと知ってビックリする娘にさらに続けます。
「お前の体には私の子供が宿っている。私の形見だと思って育ててくれ。私はお前に刺された針から毒が回ってもう長くないようだ・・・」
どこからツッコめばいいんだろう(笑)
いきなり神様の子供をご懐妊とか告げられるのもビックリですが、服の袖に付けた縫い針が実はダイレクトに龍神様の肌に刺さってたのもビックリ。
さらにその針のせいでもうすぐ龍神様死んじゃうとか・・・・龍神様よわっっっ!!
それから数か月後、その娘に子供が生まれました。
元気な男の子だったのですが、その子はなんと脇腹に3枚の鱗がついていたのです。これは龍神の子供の証?!
その子は「五十嵐小文治(こぶんじ)」と名付けられ、スクスクと成長していきました。
五十嵐小文治.jpg
四十五人力といわれる豪傑として称えらえ、地元を荒らしていた山賊を退治するなどの活躍をしたといいます。
百人力っていうより具体的な数字がリアルですね(・ω・;)
彼が力試しに杉の木に向かって石を投げたら、杉の木にめり込んだという伝説があり、その杉の木が三条市の五十嵐神社に現存しているそうです。
五十嵐神社・杉.JPG

よくある昔話ながら、娘のところに夜這いに通う男を親が容認したり、神様が縫い針で死んだりと微妙にツッコミたくなる昔話でありました。
フィクションでもそのモデルになるような人が先祖にいたんだとしたらちょっと誇らしいですね。

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