越後長岡 よもぎひら温泉 和泉屋

よもぎひらの日々の出来事 和泉屋のブログ

2011年12月30日(金)

温泉のお正月

皆様、年越しの準備はいかがでございましょうか?
イカピーでございます。
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年越し準備のひとつとして思い浮かぶのが「おせち料理」
おせち料理.bmp
奈良時代から正月を祝う料理として形式を変えながら現代まで続いている文化です。
料理の一品一品に、縁起を担いだ語呂あわせや長寿、出世、開運などの願いが込められた料理ですが、一貫しているのは濃いめの味付けで日持ちがするもの、ということです。
「火の神様に穏やかな新年を迎えていただくために、正月は台所を休ませる」
という理由で年末に日持ちのする料理をしておいて、正月に食べるという理由が起源だそうですが、日頃から家事に追われるお母さん達も正月くらいはゆっくり休ませてあげたい、という優しさが現代まで続く理由なんじゃないでしょうか?

早めに作り置きして新年を迎えるのもいいですが、近年は宅配サービスやインターネット販売でおせちを注文するのも流行だそうです。
一層お母さん達に優しいですよね ( ̄ω ̄)b

ここからイカピー営業活動です(*´ω`)
温泉旅館での年越しというのはいかがでしょう?
のんびり温泉につかりながら1年を振り返り、家族そろって夕食をとる。
夜には年越しソバも用意しております。
和泉屋の近くに残念ながら除夜の鐘を聞けるお寺はありませんが、商売繁盛の神様を祭る神社があります。
全118段、除夜の鐘より10多い階段を一段一段踏みしめて、煩悩を払いつつ10段分は新年への希望をのせて2年参りをしていただけます。
明けて元旦でございます。
早朝玄関先にて、私イカピーが新春を言祝ぐべく、初仕事として力一杯に餅つきをさせていただきます。
ご来館のお客様にも一緒についていただき、その餅をおせち料理と共に食べる。
もちろん酒どころ新潟自慢のお酒も用意しております。

昔から「1年の計は元旦にあり」さらに「終わりよければ全て良し」と申します。
大晦日と元日を優雅に過ごすことで、1年の終わりも計も良いものにできるのなら、ちょっと贅沢もアリではございませんか?
本年の年末年始はお陰様で満員御礼となっておりますが、先々よろしければ温泉での年越しをご体験いただきたく思います。

おおよそ年末年始に必要な物は揃えて御持て成しする所存の和泉屋ではございますが、
ご自宅の大掃除ばかりはご自身にしていただくしかありません。
大掃除をしっかり済ませて、気持ちよく新年をお迎えください。

「お前がいうか!」というツッコミが事務所内にこだましたような気がしますが幻聴でしょう。えぇ気のせいです。
以上、掃除と整理整頓が大の苦手なイカピーでございました。

よその温泉旅館ではどんなサービスがあるんだろう?こちらから探してみてはいかがでしょうか。
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2011年12月29日(木)

判官贔屓

おはようございます。
和泉屋内でも1.2を争うほど涙腺の緩い男、イカピーでございます。
ちょっとした感動ですぐ泣きます。

唐突ですが
「判官贔屓」この漢字を読めますでしょうか?
「ほうがんびいき」と読みます。
意味はかわいそうなものや同情的な境遇のものに心惹かれ、ひいきすること。
ちょっとわかりづらいでしょうか?

例えばスポーツや格闘技何でもいいんですが、生まれながらのエリートで恵まれた環境で育った無敵のチャンピオンと、貧しい生活や挫折を繰り返しながら成長していったチャレンジャーが対決することになったとして、あなたはどっちを応援しますか?
例えがアバウトすぎてイメージしづらいかもしれませんが、きっと後者に感情移入する人が大半だと思います。
かわいそうな境遇の人、逆境の人を応援したいと思う気持ち、これは日本人に特に強いそうです。

先日のフィギュアスケートでお母さんを亡くされたばかりの浅田真央選手をいつもより一層強く応援した人も多かったんじゃないでしょうか?
かくいう私もその一人です。

この判官贔屓の判官ってなんでしょう?
実はコレ源平時代の英雄・源義経の官職なんです。フルネーム「源九郎判官義経(みなもとのくろうほうがんよしつね)」
彼は劣勢の中、敵方である平家を次々に打ち破り源氏の一族を勝利に導いたにも関わらず、兄の源頼朝に命を狙われついに自害してしまいます。
その悲劇的な生涯に後世の人は感動、同情し「判官贔屓」という言葉が生まれたそうです。
現在は学術的に完全に否定されていますが「源義経は生き延びて北海道でアイヌ一族として暮らした」とか「モンゴルに渡ってチンギス・ハン」になったなどの説も一時期取り上げられていました。
これも悲劇のヒーローのハッピーエンドを願う「判官贔屓」の気持ちから生まれた異説なんじゃないでしょうか?

さて来年の大河ドラマは「平清盛」です。
いってみれば「日本人のみんなに好かれやすい源義経」の宿敵側が主役。
どんなドラマになるのか楽しみですね。

まぁ、ナイトワーカー五十嵐は日曜の夜はまず仕事で見れないんですが(・ω・;)

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2011年12月28日(水)

越後はミステリー?

おはようございます。
小学生のころに三国志に魅せられて20年、日本の戦国にハマって10年ちょっと、最近は東西冷戦や核抑止論に興味がでてきております、イカピーでございます。

歴史を紐解くには当時の人の残した資料が必要になります。
三国志なんかは、歴史書として列伝形式、箇条書きになっている史実に後世の人がイメージを膨らませ脚色し、物語になったもの、「三国志演義」というものが一般的な三国志として扱われています。

では日本の戦国は?
1800年も昔の中国の歴史である三国志に比べれば、およそ400~500年前の自国の出来事なわけですから、当然、資料も多く正確な歴史が残っている・・・・・ハズなんですが(・ω・;)

なかなか総合的、客観的に歴史を残すって難しいんですよねぇ。
どうしても書いた人の立場や感情が入り混じっちゃうわけです。
近年まで歴史上の出来事や人物評はほぼ徳川幕府が編纂したものがそのまま信じられてきました。
徳川家は初代家康さんを筆頭に巧妙かつしたたかで、自分の敵方も上手に褒めることから公平な資料だと思われてきました。
ところがよくよく検証してみると、やっぱり自分の家に都合の悪い事を隠したりねつ造したりってのが分ってきました。

最近は歴史研究科の人たちによって、徳川の手の入っていない歴史資料の研究が行われています。

織田家を中心とした資料で代表的な物に太田牛一の「信長公記(しんちょうこうき)」、ルイス・フロイスの「フロイス日本史」があります。
信長公記を記した太田牛一という人はもともと記録係など文化面を担当する人ではなく、弓の腕を誇る武闘派でした。
ところが趣味の日記のように主君信長の歴史を記しているうちにそっちが本職になり、豊臣時代までいろいろな歴史資料を書き残しています。
代表作である信長公記は正確な一級資料として現代でも最高級の評価を得ています。
ルイス・フロイスというのはキリスト教の布教に来たポルトガル人で、織田信長の保護の下で布教活動を行っていました。
その中で自国ポルトガルへの報告のため、日本でおきた出来事を歴史にまとめていました。
外国人視点のため、歴史的な出来事を客観的に記録している素晴らしい資料なのですが、
キリスト教に理解のある武将を高評価にし、キリスト教否定派を低評価にしている点にはちょっと注意が要ります。

武田家の代表資料として駒井高白斉の「高白斉記」、高坂昌信の「甲陽軍艦」が挙がります。
駒井高白斉という人は武田家の内政・外交など政治面で活躍した人でこの高白斉記も武田の歴史資料として重宝されています。
イカピーイチオシ武将でもある高坂昌信。軍事・政治もできるイケメンというパーフェクト武将が記した「甲陽軍艦」
これは歴史書というより、武田家における戦術の基本や儀式の流れ、家中の法律など当時の文化内容を知るうえで重要な資料として知られています。
常勝を誇る武田軍団と伝説の軍師山本勘助の活躍も記されています。

ほかにも、各大名の家ごとにいろんな資料があるんですが、
そのなかでどうにも寂しいのが我らが越後。
信長、信玄と並んで戦国時代の主役と言える上杉謙信やその軍団に関する資料は数が少なく信憑性の薄い物ばかりなんです。
しかしイカピーはポジティブに考えます。これは好きなように妄想してもいいんだぞ!とw

ということで今後も偏見と妄想のたぶんに混じった越後上杉の歴史をご紹介していくかと思いますが、
どうぞ、お付き合いください。
上杉家以外にもリクエストを頂けましたら、イカピーなりな解釈で紹介をさせていただきます!

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2011年12月27日(火)

足下を見る?

おはようございます。歴史は強いけど地理に弱いイカピーでございます。
(観光業としては致命傷じゃあるまいか?)

昨日の地名ネタで、かずっちさんより「東京の県庁所在地は東京」という話のコメントを頂戴しました。
なるほど、これまで意識したことがありませんでした。
というか新宿区にあることすら知りませんでしたorz
気になったので調べてみましたら「地図には市町村の名前を記載するが、東京23区は市町村ではない。だから便宜的に地図上では県庁所在地である新宿区を『東京』と表現する」加えて、昭和18年までその地域を「東京市」と呼んでいたことにも起因するのだそうです。実にタメになりました。
かずっちさんありがとうございます。

さて本日の話題。
「足下を見やがって・・・」悔しそうに言いながらお金を払う。
実生活ではそんなに使わない言葉・・・というか、多用するような状況になりたくはないものですが(・д・;)
人の弱みつけこまれ、適正価格より多額の金銭を請求されるような時に使われる言葉ですが、足下ってなんのことでしょう?

これの語源は我々旅館業の原型、宿屋にあります。
江戸時代以前、旅といえば当然徒歩でした。
その時代に宿がいくつもあるような大きな町はともかく、
宿が1軒しかないような小さな町や、町と町の間の街道にある宿などは基本宿泊金額なんかをあえて設定していませんでした。
お客さんが訪れて「今日部屋あいてる?値段はいくら?」などと聞かれると、
熟練の番頭さんは、その人がどれくらいお金を持っているかを予想しつつ、お客さんの足を見ます。
「草履がどれくらいくたびれているか」「足の腫れ、疲労はどれほどか」を瞬時に判断し、
「このお客さんはもう歩く元気がなさそうだから高額を払ってもウチに泊まってくれそうだ」とか
「このお客さんは安くしないと隣町まで歩いていく元気がありそうだ」
など相手の状況、とくに足下の状態を判断基準に即座に金額設定を行ったそうです。
「足下の状態から高額料金をふっかけられる」ところから「足下を見る」という言葉が生まれたのです。
熟練の番頭さんスゲェな。

現代は交通の便も整い、宿泊も事前予約が基本になっています。
和泉屋一同お客様の足下など見ることなく、目を見て真心でお出迎えさせていただきます。

お、私ちょっといいこと言ったぞ ( ・`ω・´)ドヤッ
すみません調子にのりました。

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2011年12月26日(月)

どっちが上?どっちが下?

おはようございます。イカピーでございます。

先日、県外のお客様からこんな質問をされました。
「どうして上越、中越、下越って名前がついてるんだ?」
なるほど地図で見るとなんとなく北にある方が上、南にある方が下というイメージを抱かれるんだそうです。
印象は別にしても、県庁所在地であり県内第一の都市「新潟市」がある地域が「下越」と呼ばれることに違和感はあります。

この上下の呼び方はどうやって決められたと思いますか?
正解は「京都」を基準に近い方から「上」遠い方を「下」なんです。
古くは「上越後」「中越後」「下越後」と呼んでいたものを短くして「上越、中越、下越」になったんだとか。
さらに広く見ると、京都に近い方から
現在の石川あたりを「越前」
富山近辺を「越中」
そして新潟を「越後」と前中後の文字をあてたのも同じ理由です。

さらに余談ですが、「くだらない」という言葉の語源をご存知ですか?
豊臣秀吉が大阪に城を作り、浪花・堺は経済の中心地になりました。
豊臣が亡び、徳川の江戸幕府が国家の中心となっても、商業の中心は大阪でした。
大阪の商人たちは大阪に近い方を「上方」、大阪から離れるほど特に関東東北を「下方」と呼んでいたそうです。
その大阪の商人たちが価値の無い商品に対して
「そんなものは我々上方はもちろん、下方に持っていたって売れねぇよ」
といった事から「下しても売れないもの」→「くだらないもの」という言葉になったんだそうです。

現在は新幹線なども首都東京を中心に上り下りと表現していますし、時代の移り変わりで中心が変わるというのも面白いと思いませんか?

2011年12月25日(日)

チ-ム30のクリスマス

おはようございます。イカピーでございます。
前回の記事の「イカピー」というお菓子の画像を探そうと、
googleで「イカピー」と画像検索したら、
なんと私の写真が上位にきてるじゃありませんか?!
なんだろう、コレふつうに嬉しいかもw

昨日のオフには実家のある柏崎に行ってきました。
(私の家族は山古志から中越震災後に柏崎に引っ越しました)
その帰りに私の一番お気に入りのお菓子屋さん、
柏崎の「YASHIRO」さんというお店でケーキを買ってきました。
DSCF1653.JPG

三十路過ぎの独身男性ズ、名付けてチーム30(サーティ)でクリスマスパーティ?です。
DSCF1652.JPG

さてこの3人、来年はステキなクリスマスが迎えられるんでしょうか?
みなさんはステキなクリスマスを過ごせましたか?

2011年12月24日(土)

450年前のラブレター

おはようございます。
イカピーでございます。(画像に意味はありませんw)
いかピ~1.JPG

今日はクリスマスイブということで、戦国時代にあったラブストーリーをご紹介しようと思います。

とある男の話。
彼の恋人は同じ職場の部下でした。
周囲からも公認のカップルでしたが、ある時男は恋人から浮気を疑われてしまいます。
しかも相手は男の部下、恋人にとっては同僚にあたる人物です。
恋人に疑われたことに焦った男は、疑いをはらすべく手紙を書きました。

「確かに俺の方からアイツに迫ったことはある。
でもアイツには『体調が悪いから・・・』といって断られてきた。
これまでアイツと寝たことはないし、これからそんな約束もない。
まして今はお前の事で頭がいっぱいでアイツの事なんて思い浮かびもしない!
お前ともっと近づきたくて、いろいろやったりしたけど返ってお前に疑われることになって困惑してる。
お前に疑われたままじゃ、俺は何も手につかないんだ。
八幡菩薩、諏訪大明神・・・とにかくありったけの神様に誓うよ。
本当ならこんな手紙じゃなくって、誓約書に書いて送りたいくらいなんだ。
でも、急いで気持ちを伝えたいから、手紙で送らせてもらうよ」
(現代語訳 byイカピー)

必死で浮気が未遂であることを弁明し、恋人を一番大切に思っているということをアピールする手紙を送りました。
この熱意を感じて恋人は男を許し、一層関係を深めたといいます。

この手紙を書いた「男」というのはあの有名な武田信玄の若いころ。
問題の送った相手、「恋人」というのが春日源助、後に高坂昌信と名乗る武田の名将。
そうです Σ(゚∀゚;)
ちなみに文中の「アイツ」という浮気相手も弥七郎という男。
つまりこの騒動、男だけの三角関係なんです。

実は戦国時代で男同士のラブストーリーというのは割と一般的な文化でした。
「武将たるもの男も女も等しく愛せて一人前」なんていわれてるくらいです。
とはいえ、主君の側から家臣にこんな手紙を書くのは珍しいでしょうし、
それが450年もたった現在に世間にさらされようとは天下の武田信玄も夢にも思わなかったでしょうねぇ。
手紙を送られた春日君、後の高坂昌信は軍事・政治とも優秀なうえ戦国時代きっての美男子として有名な武将です。
この手紙から、そのイケメンぶりが窺えようってものです。

これをご覧の皆様は浮気なんかしないで、ステキなお相手と聖夜をお過ごしくださいませ。
ではメリークリスマス!!

2011年12月23日(金)

長岡の鬼 ③

おはようございます。
年の瀬の一大イベント、皆様も楽しみにしてらっしゃる方も多いんじゃないでしょうか?いよいよ有馬記念クリスマスですね!
馬券を買わない競馬好きイカピーでございます。

当ブログを細かくチェックしてくださり、コメントを多数残してくださってる「かずっち」さんの正体を確信しましたぞ ( ̄∀ ̄)ニヤリ
ルーム係のマナミからお子さんの名前を確認したのが決定打。
「徳川家康を最も恐れさせた男」よいお名前です♪

それでは鬼小島君のお話の続きです。
人間離れした逸話ばかり並べましたが、最も鬼小島弥太郎という武将を象徴する逸話を最後にひとつ。かずっちさんが好きという武田の名将が登場します。

計5回にも渡って戦われた、上杉VS武田の「川中島の合戦」
そのなかでも最も激戦となった第4次川中島の合戦で、鬼小島君は一軍の大将として参加しました。
その戦で武田の若き武将、飯富源四郎(おぶげんしろう)と対決します。
この飯富源四郎、後に武田最強の武将とよばれ、武田軍の象徴ともなる真紅の騎馬隊「赤備え」を率いる名将となる男です。
その飯富と互角以上の戦いをしていた鬼小島。
その一進一退の闘いの最中に「信玄の長男がピンチ」という情報が入ります。
「主君のご子息の危機に駆けつけたい。この場は引かせてもらえないか?」
という飯富の懇願をアッサリ承諾します。、
主君の息子の危機をなんとか救った飯富源四郎、改名して山県昌景は後に、
「越後の鬼小島というのは華も実も兼備えた勇士だ」と褒めたたえたそうです。
戦場の武勇はあっても越後では政治的地位の高くなかった長岡城主・鬼小島弥太郎を敵国のトップクラスの名将がベタ褒めしたわけです。

五十嵐が好きな上杉軍のなかでも特に好きな武将の1人。
これまで軍記物語などに登場することが多く、史実のなかにその名前がほとんど見られない事から存在を疑われてきました。
研究によって存在は確認されたものの、その生涯や逸話などは依然として議論の的になっています(戦国好きの人たちのw)
そういうミステリアスなとこも魅力ですよね。

さて、テーマとして2つめを終えたところですが、ご覧の方々に少しでもお楽しみいただけているでしょうか?
感想や「私は戦国時代の○○が好き」なんてコメントを残してくださるとうれしいです。(`・ω・´)

2011年12月22日(木)

長岡の鬼 ②

おはようございます。
和泉屋で1.2を争う子供好きイカピーでございます。
あんまり子供に好かれないのが悩みなんですが・・・
体がデカイから怖がられるのかなぁ・・・・(´・ω・)ショボン

今回もコメントをいただきありがとうございます。
>タコピーさん
笑顔をお褒めいただけるのは接客業として無上の喜びであります(`・ω・´)
生まれてこれまでモテた事は一切ございませんが・・・orz 
>かずっちさん
同じ趣味の方に読んでいただけるのは嬉しいですね♪
私も武田には好きな将が多いです。好みもかずっちさんと似ていて
高坂、馬場、特に真田は三代それぞれに魅力がありますよね!

それでは長岡の鬼、鬼小島君の話の続きを。
彼の逸話には面白いものがたくさんあります。
上杉謙信が京都に行って将軍の足利義輝(あしかがよしてる)と仲良くなった時に、義輝さんのペットだった大猿が町で暴れてるので助けてほしいと頼まれました。
謙信のお気に入りとして京都にお供してた弥太郎君はその依頼に応え、見事大猿を捕獲して将軍に返しました。

宿敵である武田信玄への使者として甲府まで弥太郎君は派遣されました。
敵方である謙信からの使者に恥をかかせてやろうと信玄は狂犬その名も「人食獅子」を弥太郎君にけしかけます。
しかし弥太郎君は狂犬に足を噛み付かれながらも平然と謙信からの手紙を読み上げ、任務を全うした上で、その狂犬をなぐり殺して越後に帰ってきました。

ある戦で川を渡ろうとしたときに雨の増水で川の流れが早く、馬が渡れそうにないと謙信が立ち往生していたときに、
弥太郎君は謙信を乗せた馬ごと担ぎ支えながら川を渡り切ったといいます。

猿を退治して犬退治して、あとキジでも倒せば桃太郎にも勝ちそうな鬼っぷりですねぇ(^-^)
次回は武田軍との戦での活躍を紹介します。

2011年12月21日(水)

長岡の鬼 ①

おはようございます。
先輩の優しさでクリスマスイヴにお休みをいただいたものの何の予定もない男、五十嵐です。一人きりのクリスマスイヴ~~♪ (;ω;`)

では本日の話題。
戦国時代、この越後・新潟を治めていたのは上杉謙信です。
ではその上杉謙信の下で、この長岡の領主だった人はだれでしょう?

その人を紹介する前に、当時の越後の経済や地形事情を説明します。
まず上杉謙信が居住する越後の中心になるのが上越の「春日山」
春日山から近い、上杉家随一の豪傑・柿崎景家が治める「柿崎」
関東圏への玄関口で、治めるのは謙信の義兄にして後の上杉景勝の実父でもある長尾政景。魚沼「坂戸」
海を使った貿易経済の要所で上杉の軍師・宇佐美定満が治める「柏崎」
上杉家の政治のリーダー直江景綱が治め、後に直江兼続が引き継ぐ「与板」
上杉謙信が10代の青年期を過ごし、戦国デビューを飾った本拠地「栃尾」
・・・などが重要な地域でした。
現在は新潟県第2の都市として上記の与板や栃尾も吸収した長岡市は、戦国時代には小さな田舎町でした。
しかし、その長岡城(当時の名前は乙吉城)の城主がなかなかに面白い人物で、五十嵐の好きな戦国武将なのです。

その人の名前は「小島貞興(こじまさだおき)」
若いころは「弥太郎」と名乗っていました。
上杉謙信は女性嫌いでたくましい若武者を好んでそばに置いていて、彼は特に気に入られた青年でした。
弥太郎君は、その武勇から「鬼小島」と呼ばれていました。
この時代の鬼というのは悪い物の象徴ではなく、むしろ悪魔を払ってくれる守り神のようなニュアンスがありました。
武田家の「鬼美濃」 九州の「鬼島津」 織田家の「鬼柴田、鬼武蔵」などそれぞれの大名の下に鬼のニックネームの武将がいました。
弥太郎君自身もそのニックネームがお気に入りで「鬼小島弥太郎」と名乗っていました。

次回はその「鬼」の武勇伝を紹介します。