ご無沙汰をいたしておりました。イカピーでございます。
だいぶんに間隔があいてしまいましたが、中越震災の話の続きをさせていただきます。
一夜明けて10月25日・日曜日。
私達男性スタッフでお客様の車を保護し、女性陣がお客様方の帰宅方法や交通経路などを確認しました。
それらの仕事を終え一息つくと、それまで無我夢中で見えなかった「現実」が急に目に入ってきました。
地形すら変わった山々、ひび割れた道路、崩れかけた建物、それは訓練でも悪夢でもなく「現実」でした。
現実を認識し目の当たりにすると急に涙が溢れてきました。
「今、私にできることはなんだろう?」自問してみます。
方々が崩れた和泉屋の建物に入り、使えるものを回収し状況の把握をしました。
そして次に自分の問いに出した答えは「今のこの状況を少しでも広い範囲で見て覚えておこう」ということでした。
蓬平を下り始めたところで、智子女将と会いました。
女将も同じことを考えていたとのことで、二人で蓬平を歩き山古志村の入口付近まで状況を見て回りました。
傾いた建物、削られた山肌、いけすが崩れて道路に打ち上げられた錦鯉、など智子女将と一緒に見て回った震災翌日の光景は7年以上を経た今でも鮮明に思い出せます。
行楽シーズンの週末ということもあって、和泉屋の冷蔵庫には大量の食材が入っていました。
そして頼もしいことに、当時の板前さんの中に関西出身で阪神大震災を経験した人がいました。名前は「春木」さん。
和泉屋に入って日の浅い人だったにも関わらず、自分の経験で少しでも人助けをしたい。と率先して調理の指揮をとってくれました。
今はどちらにいらっしゃるでしょうか。きっとあの人も東北の惨状を見て人一倍に胸を痛めている1人だと思います。
地震の起きた当日から何度も家族と連絡をとろうと試みていましたが、25日の夕方になってようやく実家山古志の弟と電話がつながりました。
そして弟の口から聞いた山古志村池谷地区の状況を聞き唖然としました。
木造古民家の生家はかろうじて原形を留めている状況、父が営む酪農の牛舎も同様。そして今は屋根もない村のバス停駐車場に地域中の人が集まって毛布や布団に包まって救助を待っている状況だ。そう弟に伝えられました。
またも頭が状況把握に追いついていなかった私はただただ家族全員が無事であったことを喜び、励ましの言葉をかけることしかできませんでした。
(つづく)
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