おはようございます。イカピーでございます。
これを記しているのはもう日付が変わろうかという時刻ではありますが、本日は3月11日。東日本大震災から1年という日であります。
震災を経験した者として、今も避難所生活を送ってらっしゃる方々の様子などを報道で目にすると胸が痛みます。
あの被害状態を目にし、今も苦しい生活を強いられている方々を思うと、私たちが経験した中越震災を苦労話にして語ることが憚られるところです。
しかし、現在でもお客様より中越震災当時のことを聞かせて欲しいというお声が多く、女将に「いかにして和泉屋を復興させたかの講演」をしてほしいというオファーも多々来ております。
当ブログ部のヤスオ部長から「僕たちスタッフの目線から中越震災の経験のことを書いてみるのもいいんじゃない?」と言われ、キーボードを叩いているところであります。
2004年10月23日土曜日冷え込みの厳しい秋の日でした。
和泉屋は行楽シーズンのしかも週末ということで、大型バスでの団体様を迎え、お客様の総勢は150人を超える満員御礼の日でした。
現在は夜勤専門の五十嵐ですが、当時は午後から夜までのシフトで勤めていました。
我々にとっては忘れ難い「PM5:56」
私は売店コーナーでお客様の応対をしていました。
最初に感じた横揺れ、これは「けっこう大きいな」という程度でそれほど驚きませんでした。
それから数十秒後でしょうか、今まで経験したことのない縦の揺れに襲われました。
売店にの棚に並んだマグカップやお酒などがいっせいに飛び出し床に残骸を散らします。
ちょうどその時いらっしゃったお客様がブティックハンガーに並んだ服を見ているところでしたが、そのハンガーラックも倒れこみました。
そのお客様ご自身もバランスを崩し床に倒れましたが、上から倒れかかってきたのが服だったのがまだ幸いだったと思います。
それがお酒や陶器の並んでいるコーナーだったらと思うと今でも恐ろしくなります。
そのお客様を玄関方向に誘導した後の私の記憶は飛び飛びになっています。
フロントの先輩方と「6F客室全部避難OK!」「お風呂場も避難完了!」「エレベーター使ってる人もいない!」などと手分けをしながら館内を走り回ったのはおぼろげに覚えています。
「あの状況であれだけ冷静で迅速な対応ができたアンタ達を私は誇りに思う」と今でも智子女将は褒めてくれます。
ただ、ほかの先輩方は知らず、私に関して言えばその段階では「現実を受け止められていなかった」と自己分析します。
ただ夢中に走り回りながら気持ちでは「これは訓練の一種」とか「悪い夢でも見ている」といった感覚でした。
震災の起きた「5:56」という時刻。
ちょうど団体の方を中心に大半の方が夕食の席についている時間でした。
一所に集まっていたために避難が円滑だったこと。夕食が始まると釜飯や鍋物に火を入れるのですがその直前だったため火災を避けられたこと。などは不幸中の幸いな要因だったと思います。
反面、冷え込みの厳しい日に皆様お風呂上りの浴衣1枚。さらに夕食前の地震による空腹。とその後を過ごすには厳しい状況でした。
女性スタッフで社員のまかない用に炊いてあったご飯をオニギリにし、売店のお土産用のお饅頭や漬物などをお客様に配りました。
私たち男性陣は揺れが少し落ち着いたのを確認すると、チームを組んで布団倉庫や浴衣倉庫に入り少しでも暖を取れるものを集めて来ました。
そして団体さんを載せてきた大型バスや和泉屋のバスの中になんとかお客様を収容したのを覚えています。
その段階で出来ることがなくなると、とりあえず解散となりました。
その時に至ってもまだ現実を受け入れられていない五十嵐は「建物には入るな」という周囲の忠告も忘れ、いつもどおりに社員寮に戻りベッドに潜り込みました。
夜が明ければ日常が戻ってくると信じるようにして・・・・
(つづく)
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